05: 授業中にヘッドフォンをつけている!
(事例教材の〈事例〉の部分の抜粋。内容は今後変わる可能性があります)
森田先生は、首都圏の某大学の留学生センターで日本語を教えています。欧州のある国の留学生Sさんの件で困っています。その留学生は、(見かけで人を判断してはいけませんが)大柄で、髭面でいかつい感じの男性で、ちょっと怖い感じの印象を人に与えます。
そのセンターではコースの最後に発表会をします。その発表会は、センターの教員がそろって出席し、関係者も招かれ、2日間にわたって行われる大がかりな公式行事です。
問題は、その発表会の初日の午前中、Sさんが発表のため壇上に立ったとき起こりました。Sさんは、いきなり「プレゼンの音声がうるさくてがまんできない」と聴衆に訴えました。大きな会場なので、発表者はマイクを使い、スピーカから増幅した音声を流していましたが、もちろん、不快に感じるような爆音では決してありません(と、森田先生には思えました)。
そして、Sさんは、自分の発表のあと、ずっとヘッドフォンを装着して会場にいました(音楽を聴いていたわけではないようです)。周囲はざわつきました。「他人の発表を聞くつもりがない」という挑戦的な態度に見えたからです。
Sさんは、ふだんの教室でも反感をもたれがちで、いっしょにグループワークをしたくない相手だと思われていました。誰に対しても、態度が批判的で攻撃的であるように見えたからです。「まちがいが許せない」という態度で授業に臨んでいるようでした。また、とてもプライドが高いように見えました。また、Sさんは教師にも評判が悪いようです。自分の意見に固執し、教師の助言を容れないような態度が目立ったため、「わがまま」であると評価されていました。
さて、森田先生は、発表会の昼休みの時間に、Sさんに対し、周囲がSさんの行動に反感をもっていることを告げ、理由を尋ねました。どうやら、Sさんは聴覚過敏の傾向があるようでした(本人はそう明言はしませんでしたが)。しかし、それにかかわる配慮申請は大学には出されていませんでした。出されていれば、とうぜん、森田先生も他の先生もそれを知らされたはずです。
森田先生は、周囲に理由を告げ理解を求めるようアドバイスをしたが、拒否されました。本人は自分の症状のことを人に知られたくないようでした。プライドの高い彼は、周囲に自分の「弱点」を知られることにがまんがならないようでした。Sさんは「自分はちゃんと発表を聞いているのだから、ヘッドフォンをつけていることのどこが問題なのだ?」と主張します。
森田先生を含めた留学生センターの教員は、昼食を取りながらこの件について話し合いました。
吉見先生:「規則だから」でいきましょう。規則に従いヘッドフォンを取るか、聴覚過敏のことを話して了解を求めるかを選ばせましょう。
森田先生:そんな規則はありませんよ。
吉見先生:でも、発表会のときは人の話を聞くのは常識でしょう?
森田先生:彼は「聞いている」と主張していますよ。
吉見先生:本人がみんなに理由を説明できないのなら、我々が代わって説明したら……
シム先生:本人が望まないのに個人的事情を暴露したら、それは「アウティング」ですよ。絶対だめです。
吉見先生:日本の習慣では、教室の中では帽子を取らなければならないんですよ。ましてや……
内山先生:あっ、教室の中での脱帽は強制していませんよ。イスラム教徒のスカーフも、ユダヤ教徒の帽子も許容しているじゃありませんか。
吉見先生:そんなことを言って、みんな授業中に音楽を聴くようになったらどうするんですか?
森田先生:彼は音楽を聴いているわけではありません。
吉見先生:だって、見分けがつかないでしょ!
内山先生:あの……話が逸れていますよ。
吉見先生:イスラム教徒やユダヤ教徒は別にしても、日本人には帽子を取らせているわけでしょう?
シム先生:国籍や宗教によって対応を変えるのはどうかと思います。
古川先生:わたしは、日本人にも帽子をかぶることを認めていますよ。以前、研究のストレスで円形脱毛症になった大学院生が、許可を求めてきたので、それ以来、申告不要でかぶらせています。
吉見先生:そういう特殊な事例は別にして……
古川先生:その院生は、吉見先生が指導している院生でしたから、同じような院生がまた現れるかもしれませんよ。そうそう、「帽子はかぶったままでよい」と告げたら、髪を染めるのを失敗した学生がかぶってきました。人助けになったと思います。
シム先生:病気の治療で髪が抜ける例もありますからね。
吉見先生:しかし、学校に配慮申請が出ていない以上、そんな配慮は……
古川先生:申請が出たら配慮をするのは義務です。申請がなかったら配慮をしてはいけないということにはならないでしょう。ましてや、「過度な負担」とは無縁の配慮ですし。
吉見先生:でも、公平性を欠くような配慮はできませんよ。他の学生がヘッドフォンをかけたいと言ってきたら……
森田先生:音楽を聴くのを許可するわけではないんだから……
吉見先生:だって、見分けがつかないでしょ!
内山先生:あの……話が逸れていますよ。
話し合いのらちがあかないので、森田先生は、Sさんを納得させられる、ある解決策を提示しました。このプライドが高く、周囲の反感を気にしないように見えたSさん自身も、困っていないわけではなかったようでした。森田先生の示す解決策に納得し、それを受け入れると、彼自身もほっとしているように見えたからです。午後の発表会、2日目の発表会も、Sさんはアドバイスどおりにしていました。他の学生や教員が向ける訝しげな眼差しにさほど変化はありませんでしたが、Sさんが積極的に発表会に参加しようとしている姿勢は伝わったようです。
Sさんのように人前で自分の要求を主張できる学生ばかりではなく、人には言えず黙って我慢していて、教師がそれに気がつかずに学期が終わってしまう学生もいるのではないか、また、必修の授業でなければ、学生は授業に出なくなってフェイドアウトしてしまい、その学生の困りごとには誰にも気がつかないということもあるのではないか……というのが、教師たちの感想でした。
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